「あなたの中にある“母なる祈り”に気づくとき」

——母性の本質を思い出したある日の出会い

鳥の巣の夢〜女性性の目覚めの始まり
ある朝、私は印象的な夢を見ました。
夢の中、私は自分の部屋の壁に昨日まではなかった完成したふっくらした鳥の巣を見つけました。
何気にその巣の中を覗き込もうとしたその瞬間に、そこから紫色の小さな鳥が一羽、勢いよく丁寧に育まれた巣から外の世界へと私の頭上をかすめて飛び出して行きました。
その躍動感のある姿はどこか神聖な雰囲気をまとっていて、私の胸の奥に静かに灯をともすような気配を残していきました。
目が覚めても、その情景が頭から離れませんでした。
「紫の小鳥」「鳥の巣」「飛び立つ瞬間」——それらは、ただの夢の一場面ではなく、どこか自分自身の奥深くとつながる象徴のように思えたのです。
鳥の巣は、命を育む場。
そして、小鳥は、ずっと内側で育ってきた「本当の私」が羽ばたく姿だったのかもしれません。そう思った瞬間、今まで自分でも気づかないうちに封じ込めていた感覚が、そっとほどけていくような気がしました。
それは、女性性の目覚め。命をつなぐ存在としての、深い記憶の扉が開くような感覚でした。
そこに宿る小鳥は、まだ見ぬ可能性、そして新たに芽生えるいのち。
それを見守る私は、自分自身の“母なる存在”と向き合い始めたのかもしれない。
今思えば、それは女性性の目覚め、そして“母性”というものの本質に触れていく旅の始まりだったのです。
ベリーダンスの夢に見た“いのちの原型”
実は、その夢を見る少し前にも、印象的な夢がありました。
それは、ベリーダンスを踊る神秘的な女性が現れる夢でした。
けれど、夢に出てきたその女性の意味だけは、なぜか分からずにいたのです。

後になって知ったことですが、ベリーダンスとは本来、命を生み出す女性の身体をたたえる神聖な舞。
それは単なる官能ではなく、いのちの根源——
愛と交わり、宿り、育まれていく神聖な営みそのものを象徴していたのです。
その踊りの奥には、命を生み出すという行為の中にある祈り、そして深い覚悟があります。
それは、ただ“与える”ことではなく、命の重みを抱きしめながら、静かに見守る“慈悲”そのもの。
そしてその意味に気づいたのは、ある一人の女性との出会いがきっかけでした。
「これってエゴだったのかも…」——ある母の告白
「赤ちゃんが生まれてくることを、心から願っていたのに……」
彼女は、産後のママでした。
赤ちゃんが無事に生まれてきてくれたことを、心から喜んでいるはずなのに、どこか顔が沈んでいました。
「赤ちゃんが生まれてくることを、心から願っていたのに……」
ぽつりと、彼女は語り始めました。

「やっと授かった命。嬉しくて、ありがたくて、何度もお腹を撫でたし、生まれてきた瞬間は涙が止まりませんでした。
でも、今、毎日が苦しくてたまらないんです。
上の子に、前みたいに優しく接してあげられない。『ママ見て』って目を向けてくるのに、それに応える余裕がなくて……
つい怒ってしまったあとに、眠ってる顔を見ると、もう自分が情けなくて。
夫にも、家事も育児も中途半端で、迷惑ばかりかけている気がして……
赤ちゃんが欲しいって願ったのは、私のエゴだったのかもしれません……」
そう呟いた彼女の目には、涙が静かにたまっていました。
その涙が、私は忘れられません。
その言葉の奥には、「こんな気持ちを抱く自分は母親として失格かもしれない」
という痛みが滲んでいました。
「母なんだから、がんばって当たり前」
「子どもがいるだけで幸せなはず」
「自分の気持ちは後回しにして当然」——
そんな“よき母”であるべきという目に見えない圧力が、彼女を静かに、
でも確かに追い詰めていたのです。
本音を語ることは「甘え」
罪悪感を感じることは「弱さ」
苦しさを訴えることは「母親失格」
——そんな価値観が、知らぬ間に心に刷り込まれていく。
でも、その瞬間、私ははっきりと感じたのです。
彼女が語った後悔も罪悪感も、決してエゴなんかではない。
それは「本当に大切にしたい」という願いがあるからこそ生まれる、尊い慈悲なのだと。
ママの目から静かにこぼれ落ちた涙は、とてもあたたかくて優しいものでした。
その時、私の内側の深いところから、ふわりと浮かんできた言葉があります。
それは、「慈悲」──そして「慈愛」でした。
母になりたい。赤ちゃんを迎えたい。
その想いは、きっと彼女の魂の奥から湧き上がる祈りのようなもので、
命を育みたいという、静かで強い決意だったのだと思います。
誰かのためにと一途に願うその想いは、
まるで聖なる泉のように、清らかで、尊くて、
気づかないほど自然にあふれていたのです。
やがてその願いは、夫婦の営みを通して一つのいのちと結ばれます。
かつて見たの中で見たベリーダンスの光景──
それは、官能を超えた女性性の根源的なうねりであり、
からだと魂がいのちのリズムと重なったときに
目覚める“慈しみ”であるという夢の意味がここにありました。。
けれど彼女は、自分が赤ちゃんを望んだことを、
「身勝手だったのではないか」「傲慢だったのではないか」と、
善良でありたいがゆえに、深く悩み、責めていました。
育児がうまくいかない日々の中で、
「いい母でいなければ」とがんばるほどに、
自分の願いが間違っていたかのように感じてしまっていたのです。
でも──それは決して傲慢なんかじゃない。
命を心から愛し、迎えたいと願ったその気持ちは、
あまりにもピュアで、優しくて、
そしてとても力強い、魂の母性そのものでした。
母性とは、聖なる舞のように、ただ受け入れ、抱きしめ、共に在ろうとする愛。
そして、それは誰かのための犠牲ではなく、
自分自身の命も大切にするところから始まるものだと思います。
母性とは、命を慈しむ愛の祈り
“母性”とは、何かを「与え続ける」存在ではありません。
ただそこに在り、命をやさしく見守る“慈しみ”そのもの。
私たちはつい、「ちゃんとやらなくちゃ」「いいお母さんでいなきゃ」と、
自分に厳しくなってしまいます。
でも、まず必要なのは、誰よりも先に自身に優しさを向けること。
命を宿し、育てようとする——その静かで壮大な道のりを、
「よくやってるね」「本当にがんばってる」と、自分でねぎらうことです。
「よくやってるね」「本当にがんばってる」——
そんな言葉を自分にかけてあげるのも、もちろん素敵なねぎらいです。
でも、もし言葉にするのが難しいときは、行動で自分をいたわることだって、
同じように大切なねぎらいになります。
たとえば、少しだけ家事の手を抜いて、温かいお茶をゆっくり飲む時間をつくってみること。
お気に入りの香りのオイルで自分の足をマッサージしてあげること。
赤ちゃんが眠った隙に、自分のためだけに優しい音楽をかけて目を閉じてみること。
誰かの力を借りて「助けて」と言うこと。
そして、「今日は泣いてもいい日」と、自分の涙を受け入れてあげること。

そんな小さなひとつひとつが、自分への愛を思い出すための「行動するねぎらい」になります。
自分に手を差し伸べるその優しさが、やがて赤ちゃんへ、家族へと静かに広がっていく。
ねぎらいとは、自分を甘やかすことではなく、自分を人としてちゃんと尊重する、
愛のはじまりなのです。
多くのママたちは、自分のことは後回しにして、
赤ちゃんや家族のためにすべてを尽くそうとします。
それが愛であり、正しいことだと信じて——。
けれど、まず自分を満たすこと、自分の心に手を当てることは、
決してわがままでも自己中心でもありません。
むしろそれは、愛を循環させていくための、いのちの原点のような行為です。
あなたがあなた自身を大切にするとき、
そのぬくもりは自然と赤ちゃんへ、家族へ、
そして周りの世界へとやさしく伝わっていくのです。
「自分をねぎらうこと」
それは、母性という名の愛の祈りを、自分にも差し向けてあげることなのです。
小さなひとつひとつが、自分自身を愛し直すための優しい祈りになります。
自分を癒すことは、家族への愛を深め、命の和を広げる第一歩。
“いのちの和”とは、そうして響き合う心と心が織りなしていくものなのだと、
私は今、確かに感じています。
紫色の羽をもつ小さな小鳥が、巣から力強く羽ばたいていく夢。
そしてベリーダンスの女性が舞う夢。
当時はその意味がわからなかったけれど、今なら感じ取れます。

- 巣は「いのちを育む場」
- 小鳥が飛び立つ姿は「新たな誕生」
- 紫の羽は、慈しみと神聖さを象徴する女性性そのもの
あのベリーダンスの夢の中で感じた、命を宿す力と深くつながっていました。 - そしてこれらの象徴すべてが、産後のママたちが抱える「こんなはずじゃなかった」という葛藤に、優しく語りかけていたのです。
あの夢は、私の中にいる「いのちを慈しむ存在」が目覚めようとしていた証だったのです。
そして、産後のママたちが抱える葛藤や不安に、優しくこう語りかけていたのかもしれません。
──「その苦しみは、あなたが真剣に命と向き合っている証なんだよ」と。
すべての命のはじまりには、
慈しみの心が宿っています。
それは、あなたの中にも──確かに、あるのです。
ただ、忘れてしまっていただけ。
もう一度、思い出すこと。
それが、癒しのはじまりです